筆者は4~5月の土日、狭山丘陵、加治丘陵の地域環境の実地踏査を行った。
この調査は、一都一県8市町(東村山、東大和、武蔵村山、瑞穂、所沢、入間、狭山、飯能)
にまたがる丘陵を脚で巡る念願の機会であり、この期間、世間は緊急事態宣言下ではあったのであるが、
幸いすれ違う人もほとんどいなかったので、特段の問題も感じずに実施出来た。
当該地域環境の基盤を成す、馬の背形状の低い山が群れるように連なる丘陵地形は、かつて「むれやま」と呼ばれ、
これは、その最東端、東のむれやまにある「東村山」という地名の語源と云われている。(諸説あり)
MAP右下の「野口」という地名に注目頂きたい。ここでいう「野」とは武蔵野のことである。
下宅部遺跡など、縄文以降の遺跡や遺物が多数出土するこの地は「野」の出入口。
まさにここからヒトが平野に広がっていったのであろう。筆者は想像してみた。
丘陵からの豊かな湧き水に房のように群れ連なる旧里山集落は、丘陵に対してほぼ縦割りで仕切られ、
横並び連なる集落群毎に各々行政地も鉄道路線も異なり、人々の実生活に於いて関係性は断たれている。
踏査では神社仏閣等を中心に集落を巡ることで全体像を把握していった。
開発により新規住民がパッチワーク状に移り住む区域の景観は変化しているが地形による基本構成は保たれており、
特に狭山・入間周辺においては殆どプライマリーな状態であった。
豊かな地域住空間イメージがそこには見られたのである。
筆者はこの地域に生まれ育ったわけではない。
しかしながら、他所者(きたりもの)の目線で、この美しい集落を眺め、古代から連なる人々の暮らし営みをイメージ
することで元来のムラ(またはむれやま)のあり方を垣間見ることは出来た。
想えば、現代人は東京通勤通学に縛り付けられてきたのかもしれない。
こころはケータイにひもづけされ、二脚は鉄道駅につながれ、人の生活が地域に対して閉じられていたのである。
テレワーク、ステイホーム、終電繰り上げで鉄道駅の呪縛が解かれようとしている今、むれやま集落は静かに確実に
存在感を取戻しつつあるように感じる。
今、地図とスケッチブックを手に地域を歩いてみることをお勧めする。